はじめに
この記事は、亡くなって10年経った今でも父を嫌う筆者が、父のクズ人間性と改めて向き合い、強い憎しみの感情から抜け出そうとする記録です。
「親へのネガティブな感覚」って、どう処理すれば良いかわからない方も多いのではないでしょうか。
個人の体験談になりますが、本記事は「ネガティブな感覚をネガティブ“以外”の感覚に変換する」流れをまとめています。
似た想いを持つ方へのヒントになれるよう書いたつもりですので、参考になれば幸いです。
それではどうぞ。
ひとつの出来事で、人は何度でも傷つく
父がクズ──まあまあ、聞く話です。
そんな“割とある話”になると、こんな発言が聞こえてきます。
私はこの手の返答が嫌いで。何の慰めにもならない言葉だよなーって。
だからって『みんなそうなのね!良かった!嬉しい!』とはならんしょ。
こういう言葉は大抵「傷つけた側」or「傷つけられたことのない側」から出るんだよね。傷つけられた側からは出ない。
過去のことだろうが、人間はひとつの出来事で何度でも傷つくのを知っているから。
話は逸れたが、亡くなった相手へのネガティブな感情を抱え続けるのは、なかなか疲れるものだった。
居ない相手に怒る行為は、通常の怒るよりしんどいのかな。
なんとかしたい!と自分なりに感情の消化を挑戦したが、上手くいかず。
ふと『父のエピソードを書き出して、分析したらどうか?』と考えた。
父のクズ属性を簡単に紹介

クズといっても色々なパターンがありますが、私の父はこんな属性でした。
▼ウソをつく
本人曰く「ウソに抵抗がない」。自分が作った問題が表面化する前や、家族に隠れて行動した時に出ました。
ただ、その内容がしょうもない。その場しのぎのウソしか話せない。
ウソはつきたいのに、シンプルに下手なのが腹立ちました。
▼自分さえよければ系
父は自分のことしか考えられない人だった。〔自分が◯◯したら、家族はどう思うだろう?〕みたいな想像も、難しかったっぽい。
ある年の母の誕生日。父から母へのプレゼントは「おめでとう」のひと言のみ。
別に母は誕生日が嫌いなタイプではないし、家族誰かの誕生日当日は、毎回ケーキやプレゼントを用意して祝っていた。当然父にも。
なのに、だ。
自分が祝われても「じゃあ、俺も家族の誕生日に何か用意しよう」とは考えなかった。
祝ってもらった。以上。──という思考の持ち主。

「金がないから」
…誕生日って毎年同じ日だし、お小遣いがなくなる前に予算よけとけば、何か買えるよね。「今日は俺が夜ご飯作るよ」だっていいのに……。
金ないもん(プレゼント買えなくて仕方ないじゃん?)――なの。その先はない。
母は珍しく、涙を浮かべつつ話した。
誕生日に「お金がない」は理由にならない。金かけろって話じゃない。相手のことを考えようとしないのは何故?(要約)
母曰く、当時は父の成長を期待していたと。失望が爆発したんでしょう。
▼トラブルメーカー
仕事以外の行動基準が「欲求」の人で、それが時に問題へ発展した。
私たちが小さい頃から問題が起きていたが、家族も夫婦仲もまあまあ良かったと思う。
問題の流れが変わったのは、私が高校生の頃。ギャンブルへの熱中が加速し──あとはお察しください。
会社でそこそこの立場になった父は、誰が担当しても大変な部署へ異動。その鬱憤がギャンブルに向かった。
(え、サラ金に手を出せば更にストレス増えるんじゃないの~?)
――こうなってからの父は、人生という山を転がり落ちていくようだった。
▽フォローされる人
一方で、周囲に恵まれていた人でもあった。問題を起こしてもフォローしてくれる誰かが、毎回いた。
中には『そんな問題起こしても助けてくれる人いたの?!』ってエピソードもあった。
仕事は好きだから(褒められたがりだった)チャキチャキやる人だったと。その辺を評価されていたらしい。
だから問題が頻発するまで、会社も面倒を見てくれたのだろう。
最期まで逃げた父が遺したもの
私が20歳過ぎの頃かな、新たな問題・Aが父の身に起こった。
詳しくは省略するが、ま、そもそも父が長年勤めた会社で問題を起こさなければ、問題Aもなかったはず。てめーのせいっすね。
ただ、問題Aの被害者は父だけではなく、相手が悪質なため、父がとれる行動は限られた。母に相談したものの、経済的懸念から、母は父の希望をあっさり断った。
父としては、おそらく初めてに近い〔誰からも助けがない〕状況。
さあ、父はどうしたか。
「病気になった、入院した」と連絡がありました。
母曰く、父は問題が起きた時(入院したい)とよく考えてたみたい。
父にとって入院(病気)とは、周囲から優しくされつつ問題からも逃げられる!というラッキーな手段だったみたいです。
だって俺、病気になっちゃったんだもん。優しくして。責めないで──…
父はその願望を見事に現実化させ、そしてあっという間に旅立ちました。
困った時に毎回助けがあるのは、運が良くて羨ましい人に思えます。しかし同時に、自分で問題解決する・しようとする機会の損失でもある。

仕事もそうよね。新人をサポートしてばかりでは、自分で判断して実力をつけるキッカケを奪ってしまう。
ただ、何度助けられても、問題解決しようと思う力や、繰り返さない工夫、周囲への感謝などは芽生えなかった父。
その結果が〔問題A=誰からの助けもない状況〕だと思うんです。
あんた、全然自分で問題解決しないね?じゃあ、誰も助けてくれなかったらどうする?──と。
こうやって考えると『あ、父のことクズクズ言っている場合じゃないな』と心底思えた。
居ないから冷静に向き合える

感情的にならずクズ父と向き合えるのは、既に亡くなっているからだ。
理由は単純で、生きている間はネガティブな感情を抑えるので精一杯だった。父の人生が終わってからは、新しいクズ記憶が作られにくい。
特に借金発覚以降は『この瞬間も、父はまたお金を借りているのでは…』といった不安があった。
「死んだらおしまい」なんて言葉があるが、死=終わりではなく、死という現実が関係性に変化を起こす。
許せない相手が今も生きているか、そうでないか――この差は、気持ちの整理を行う上で非常に大きい。
問題発生を加速させた、もうひとつの理由
父が亡くなりしばらく経つまで、私は『問題を起こした父が悪い』と考えていた。
この考えは「母の呪縛」だったのかもしれない。
母から当時の話を聞くうちに、父が頻繁に問題を起こした一因に、母の言葉があるように思う。

母に言ったらブチギレられるから絶対言えないけど…
実際、ある大きな問題を起こしたキッカケは、母の不必要な言葉だ。
母なりの理由があって父に言ったワケだが、私から見ると内容的に軽率な発言だったと思う。
一番は、母は父に「変化」を期待していたこと。そりゃ夫婦だし、良い方向に生きたいってのは当然の感情。
変化へのアプローチ方法が問題だった。
父に「変わってね」と約束させ、成長を期待し、時には強制的に制限する──それだけ。
変わるための制限はかけても、サポートはしなかった。
母の性格を考えると「あなたが問題なんだから、あなたが何とかして」というスタンスだったのだろう。
だが、相手は物事を深く考えられず、過去から学べない父だ。それは母も熟知していたはずなのに「変わって!具体的には自分で考えて!」って催促してたんだよね。
問題集だけ渡して「これやってね」と言ってるようなもん。参考書は?ってか何のためにやるの?って話。
母も当時はらわたが煮えくり返っていたのは、わかりみが深い。けど、変化を父任せにしたままでは、上手くいくはずなかったんだよ。
──まあ、こんな反省ができるのも、父がいなくなって月日が経ったからなんだけどね。
本題前でこんなボリュームになってしまった。ここから、タイトルの内容に入ります。
“許せない”を終わらせるために実践したこと、そこで気づいた「自分に必要だった価値観」です。
父の人生を、娘が書き出してみた
今回、父の人生を書き出してみたんです。カテゴリ別で。
父という人間の背景に何があるか――推測レベルでも、何か知れることがあるかもしれない。
父の両親の記憶は殆どないため、記憶力の良い母に協力してもらう。
話を聞いていくと、出るわ出るわ新たなクズエピ(※クズエピソード)。
いや、未公開分があるんかい…書けないわそれ……みたいな。
次の世界に向けて罵倒したくなるのをグッとこらえ、母の言葉をひたすらタイピング。10,000文字を超えた。本書けるね。
エピソードが繋がり、わかりやすくなった
個別のエピソードが“線”になって、人生の流れがわかりやすくなった。
両親・兄妹がどういう人だったかまで確認したのもプラスになった。
詳しくは省略するが、父は自分の父・兄に頭が上がらなかった。おそらく、この2人にコンプレックスか何かがあったと感じる。
父という存在にあった背景がわかることで、父が少し人間に思えた。

勿論ロボットだったなんて思ってないけども、感覚的な意味でね。
怒りが長引いたのは、届かなかったから

作業をしてハッとしたこと。まず、父が亡くなっても怒りが治まらなかった理由が見えた。
どんなに怒りや悲しみを訴えても、訴えた気持ちが父に届かないまま終わったからだ。
「どうして何度も家族を苦しめることをするのか」と聞いても、父は答えなかった。
答えられないのは当然。理由がないから。
家族が悲しむ…傷つく…だとかは一切頭になく、ただ自分の欲求を追いかけた結果だから。
その「無言の答え」がまた、私たちを傷つけた。この人にとって妻や子って、どういう存在なんだろう──…。
問題についての家族会議を振り返ると、私たちも父を責めすぎたし、父の弱い思考はあっという間に停止していた。
「言っていることはわかるが、理解できない」と。
理解できないなら、どこまでなら理解できるか教えてほしかった。でも父はただ「限界」を盾にするのみ。
そんな人への感情が消化できないのは当然。ぶつけた感情は、父に届いていなかったんだから。
父へのネガティブな感情を変換する
メイン作業です。
父の人生を書き出し、父という人間の流れを探った。すると『クズ』『カス』と批判していた父の言動や存在を、違う視点でも見られるようになった。
では、具体的にどんな感情・感覚から私は父を批判していたのか。それは今後、どんな感情・感覚にしていけば活用できるのか?
今の私が書ける範囲で、表現したいと思う。
「父が恥ずかしい」

私にとって父は、こういう感覚の変化があった。
〔親〕→〔恥ずかしい存在の人〕→〔家族に“迷惑”を運んでくる人〕
家族という存在から「敵」認識に変化しちゃったんだな。
勿論、父が働いていたから生きてこれたのも事実。それは理解している。その事実もどこかへすっ飛んでしまう程、とにかく父が恥ずかしかった。
普段の振る舞い含め、自分なりの配慮さえできないことに驚きや情けなさ、怒りがあった。
認めたくなかった。自分がそういう人の娘なんだと。
それ以外にも、父の特徴は受け入れられないものばかり。
そんな父を見て育ったからか、元々の性格か、私は「父とは逆」を意識するようになった。

ウソはともかく、他は自分を大事にできるようリハビリ中です…
私にとって父は〔価値観の枠外にいる人〕。なんでそうなの?というネガティブな印象の連続で『あんな人にはなりたくない、恥ずかしい』と感じた。

ただ、父を反面教師にした私も極端すぎたのか、それはそれで厳しい人生だった。
正直、これまで溜めてきた感情が多すぎてもう潰れそう。だから文字にしているんだけど。
…この苦しみがどこから生まれたのか探るうちに、父を〔恥ずかしい存在、敵〕で終わらせるのではなく、特徴を適度に見習うことが必要だった──と考えるようになった。
例えば、他人がどう思うか気にならない「鈍感力」は真似できないが、他人がどう思うか気にしなくてもいい「選択の自由」は習得できそう。…といった感じ。
父は、私が理解し難い感覚を沢山持っていた。それらを上手く見習えば、もう少し生きやすい日々を送れたのかもしれない。
「自分勝手に生きてるのに人間関係には恵まれやがって(長い)」

『なんでこんな人でも、周りに人が居てくれるんだろう…』
なんだかんだで上司には気に入られやすく、お客からの反応も上々。入院を知り駆けつけてくれる地元の友人も、問題を繰り返しても見捨てない妻もいる。
なんで?
人間関係で苦労した私は、相手の気持ちを考えない父でも、周りに誰かしら居るのが納得いかなかった。
この答えは今ならわかる。自分を出しているかどうか、の違いだと感じた。
父は自分中心。行きたいから。やりたいから。一方私は、他人中心。何かしようとしても、誰かが少しでもイヤそうにしたら引っ込む。
他人を気にし過ぎるあまり、自分を表現する機会を失っていた。
結果、自分を表現できないから育めない。自分の存在に自信がない。他人で埋め続けようとする。
以下ループ。
私が必死こいて悩んでいることを、父は何も考えずにやるのが羨ましかった。悔しかった。
「男性=敵」
異性観って、多少の歪みならみんな持ってると思うんですよ。ただ私の場合は、望んでいない男性像を膨らませていた。
元々母が、雑談でちょいちょい男性を見下すことが多かったのもあると思う(ええ、ここでも母のせいにしますよ)。

男子はいじわるだ
+
何を言っても変わらない状況
▼▼
私は男子には勝てない
なんで「男子」かと言うと、男性観の歪みが始まったであろう時期。
小学生時代、私は男子A・Bに毎日「いじり」を受けてたのね。悪意からではなく、からかって遊ばれる。
もうね、毎日泣いてた。泣かされるために学校に行ってた感あるよ。
小学生だから男性観なんてのはなかったけど、いじりが繰り返されるうちに無意識でネガティブな感覚が芽生えたんでしょうね。
で、大人しくのんびり屋だった私は、反発を覚えた。手で相手を軽く叩く、的なね。
でも不発だった。更にやり返されて結局泣かされたり、その様子を見た先生に変な印象を持たれて終わった。
『私は男子には勝てない』──勝ち負けの感覚が育った。おそらく、同時に『私は弱い』という自己評価も身についたと思う。
別に男女は勝ち負けで決まる関係ではないが、毎回泣かされて終わった(=相手に勝てずに終わった)ためか、そのような感覚が始まったのだろう。
ここに父の存在や細かな出来事が入ってきて、私の男性観は大混乱。

男性は私を傷つけていく。どうして私はこうなんだろう…?
▼▼
男性は私を傷つけるということは
私にとって男性は、敵なのか…?
歪んだ男性観の完成で~す。
でも、男性を攻撃したいつもりはない。そもそもモテたいし。恋したい。彼氏欲しい。男性が敵?トンデモナイ。
知らず知らずのうちに、私の中の「男性とはどんな存在か」が分裂していた。
この男性と一緒に居たい!と思う自分もいれば、男性は私を傷つけると思う自分もいる。
今考えると、対異性だけでなく趣味や興味の分野でも、こういった感覚はあった。
だからでしょうか、ズレた恋愛ばかりでした。私に全く興味ない男性を好きになったり。
そりゃあ、自己評価が低いうえに、男性は私を傷つける敵だと思ってるんだもの。最終的にはダメになるよ。
…私の男性観は自分で感じていたより早い段階から歪んでいた。という話。
「自分を育てる」

最後の1ピース。今回得たなかで一番重要な気付きかもしれない。
自分という存在を育ててこなかった。
父に欠けていた部分だと思っていたが、私にも当てはまる。
父は何度問題を起こしても、変わらなかった。変わろうとしている行動はあったが、結局は変われなかった。誰かを頼るクセも、変わらなかったし。
そして、自分を成長させる(=育てる)前にお迎えがきた。
これはそのまま、私にも言える。私もまた、自分を成長させることを疎かにし続けた。
簡単に書くと「自分の表現をしない」。意思や気持ちを相手に伝えるのに抵抗がある。言いたいことを飲み込む。
そんなことを繰り返したからか、限界がきた。
小学校時代のいじりエピソードひとつとっても『暴れときゃ良かった』と思う。だけど、長年そこにすら気づかなかった。
人生で辛かった出来事をよく見ると『あれ?もしかして共通する教訓…ある??』と考えるようになって、もっと自分を出しても良かったんだ…と知った。
私という人間を作っていく――育んでいくことが必要だったのです。
おわりに
エピソードを聞く。書く。自分の中の発見を書く。より適切な言葉で表現する──に、ひと月以上かけた。
父を振り返ったことは何度もありますが、時間と手を使って冷静に掘り下げたのは初。
数々のクズエピ及びネガティブな感情を抱えながら書いたため、最初は
掘り下げて掘り下げて掘り下げて
つらいよ
状態。タイピング途中でキーボードをバンバンしてしまい、怒りが勝っていた。

でも続けると、少しずつだけど視野が広がってきた。
許す、許さないの判断をやめる
『父のこういう部分、もう少し早く理解していれば私もラクになれたかな』
…今まで、父を「許す」「許したい」「許せない」といった“許し”の視点で考えていた。
でも、許せるわけなくて。
じゃあどうしたらいいんだろう?と書き出した結果…
「許す」「許さない」から一度離れ、許せない相手との記憶とただ向き合うことが初めの一歩かなと。
まだ父を許せてはいないだろうし、読み返すと腹も立つ。仮に今、目の前に現れたら反射的に殴るかもしれない。
それでも向き合ううちに、フッと「見てこなかった視点」がわかる自分がいるんですね。
『許せない“けど”、父はこの時こういう対応が必要だったんだな』
『まだ許せない。“でも”、父の○○な部分は、生きていく上で重要な要素だと思う』
許す。許したい。許せない。ではない、様々な解釈をつけ足していく――
これが、許せない相手からの脱出の始まりだと思います。